※当記事は移行前のYahoo!ブログにて掲載した内容を改めて編集したモノです

年明け早々に試験だの営業部だので慌ただしい生活を送っていますけれども、ひとたび温かく柔らかいお布団の魅力に包まれると私の意識は夢幻の彼方に吸い込まれる。その感覚を味わうなかで、かつて悩みに悩んだ答え無き“問い”が再び頭のなかを駆け巡ってしまったんですよねぇ〜うん(^◇^;)




“夢か現か幻か<ゆめかうつつかまぼろしか>”

幸若舞の演目の1つである『敦盛』の一節ですが、この言葉の持つ魅力に大きく引き込まれている方も多いのではないかなぁ~と私個人は思っているんですよね。

例えば「現」は“うつつ”だが“鬱<うつ>”を経て「空虚」に通じるものがある。一方、「現」は“げん”とも読み、それは同時に「幻」を指す音でもある。また一節において「現」よりも「幻」「夢」という曖昧な意味の漢字の方が1つ多く優勢であることも面白いんですよ、ええ。

それはさて置き。

「これは“夢か現か幻か”?」

そう問われた場合に区別が出来るか否かという点において人々に差異があるが、大部分の方は「今こそ現実で、夢こそ幻」と安易に答えるかも知れない。

そう、それは正解…でも、それは間違っている。

それを端的に魅せる説話としては『胡蝶の夢』が一番有名ですね。

『胡蝶の夢』は宋の思想家で道教の始祖である荘子が生み出した説話で、簡単に言えば以下のような内容です。

ある日、私(荘子)は夢の中で胡蝶(蝶)になった。悠々自適に飛び回っていたが、ふと目が覚めると私は荘子であった。結局のところ、私は蝶になった夢を見ていたのか、それとも蝶が荘子となっている夢を見ているのか・・・。


さて、これに「YES」「NO」を明示できる人がいるだろうか??

仮に「荘子が蝶になった夢を見ていただけ」と考える。その場合、荘子が“私”で、寝ていた世界が“現実”であり、蝶は“幻”で、悠々自適に飛び回った世界は“夢”である。この点において別に可笑しな部分はない。

でもね。

仮に「蝶が荘子になった夢を見ている」と考える。その場合、蝶が“私”で、悠々自適に飛び回った世界が“現実”であり、荘子は“幻”で、寝ていた世界は“夢”である。

その場合、何か可笑しな部分があるだろうか…多分ないんですよ、うん。

何ならもっと簡略化して“現実”と“夢”の二要素でも良い。

「この“現実”で目を閉じれば“夢”を見るだろう。」

この一文を見た時、“現実”と“夢”は確かに区別されているように見える。

しかし、この文はこの世界が“現実”であることを前提としない限り成立しない。私達が今を生きているこの世界が“現実”であると無意識に断定しているからこそ、それ以外の世界を“夢”と表現できたに過ぎない。ここに視点相違の余地が生じる。

今、この見ている“世界”が現実であることを“正しい”と証明できるのか

1つの絶対的事象を2つの視点から見た際に結果が異なる場合、その何れかの視点が誤りであることに議論の余地はないものの、具体的に何れの意見が誤りであるかを確定する方法は存在しない

つまり、私が今この世界を「現実」だと主張しても、今この世界が「夢」であるとあなたが主張すれば、何れの意見が誤りであるかを確定することは本来不可能です。何せ“この世界”という事象を、“私”と“あなた”という2つの視点から見た際に結果が異なっているのだから…。

今この世界で目を閉じるから夢の世界を見るのか。

夢の世界で目を閉じたから今この世界を見ているのか。

私は高校時代にこの答えが見つからず、2日間ほど徹夜でボーっと考えに耽ってたり(笑)

この世界は本当に<現実の世界>なのか?それとも<夢の世界>なのか…それこそ正しく「夢か現か幻か」という文脈に相応しい場面ですね。それでは♪